2013年01月04日

朝日のようにさわやかに (後編)

朝日のようにさわやかに (後編)

「サンキュ……いてて」
 大きなバッグを引き摺ってきた富沢レイに笑顔を返そうとして、永原ちずるは悲鳴を上げた。
 山梨県は甲府市の県立病院。
 顔と脚以外は無傷のちずるは、ベッドに身体を起こしている。
 その姿に安堵しながらも、一言二言、言ってしまうのがレイだ。
「あんたね。その包帯の巻き方なら、無理に笑おうなんて考えずに、無表情で『私が死んでも代わりがいるから』とでも、つぶやいときゃ良いのよ」
「何だよ、そりゃ……」
 表情を動かさぬように苦笑する友に、肩を竦めるだけで教えてやらない。
 どうせ、ちずるには無駄なだけの知識だ。
「でも、ちずるちゃんは楽だよね。いつでも入院できるように、ちゃんと荷造りしてあるから。私だったら、大変だよぉ」
 妙な事に感心するキューティ金井こと、金井美加に呆れつつ、これも役目とツッコミを入れる。
「ちずるは、入院の予定があったからでしょうが。あんたにまで入院されたら、私が堪らないわよ。寮長と、マン・ツー・マンになっちゃうじゃない」
「……英才教育?」
「一子相伝、新女寮長への道ってか?」
 贅沢にも個室の病室に、どっと笑いがはじける。
 一人は痛そうに顔を押さえつつだが、いつも過ぎる会話に、むしろ安心した。
「冗談言ってる場合じゃないっつーの。こっちは大変なんだから」
 顔を顰めてやると、美加の表情が翳った。
「……処罰、決まったの?」
 その一言で、まだこちらにまで話が伝わっていないと解る。
 うんざりと溜息をついて、ちずるも吐き捨てた。
「怒ってくれるのは嬉しいけど、あたしなんかの為に問題を起こすなって。そうでなくてもあたし達は、新女でも浮いてるんだからさ」
「処罰は無しって言われた。だから、ちずるは気にしない」
 きっぱりと言ってやる。
 発端はちずるでも、これはレイと武藤めぐみの問題だ。
「処罰がないのに、どうして大変なの?」
 お気楽な奴が、きょとんとドングリ眼を更に丸くする。
 少し首を傾げる姿は悔しいくらいに可愛らしいが、いかにも自分は部外者ですという態度に、ちょっとムカついた。
「理沙子さんに言われたの。次のシリーズの開幕戦、後楽園プラザのメインで遺恨を精算しなさいって」
「後楽園プラザのメインって……レイ、あたしをダシにして初メインとは、美味しすぎないか?」
「それを言うなら『俺を踏み台にしたぁ!?』と言いなさい。そんな美味しい話のわけないでしょ」
「レイちゃんばっかりズルーい!」
 案の定、美加は頬を膨らませて抗議。
 意地悪く睨め付けてから、言ってやる。
「いくら武藤相手でも、私一人で、プラザのメインが務まるわけ無いっしょ。試合はタッグ。私と美加が組んで、相手は武藤めぐみと結城千種」
 ガラガラガッシャーン!
 漫画のような音を立てて、見舞い客用のパイプ椅子が転がった。
 盛大な物音に看護師のお姉さん達が慌てて部屋を覗きに来たが、美加のドジだろうと、苦笑いしながらナースステーションに帰って行く。
 それを待ってから、美加が裏返った声で抗議した。
「そんなの、勝てるわけ無いもん!」
 当然だ。
 後輩とはいえ、相手は、押しも押されぬ現IWWF世界タッグチャンピオン。文字通りに、世界最強のタッグチームだ。
 それも、来週の防衛戦に向けて、コンビネーションに更に磨きをかけているのだから。
「……問題は、どうやって格好良く負けるかよ」
 眉間に皺を寄せたレイに、ちずるが首を傾げる。
「基本はそうなんだろうけど……遺恨試合だろう?」
「負けた方が間違いを認めて、勝った方が正しくなっちゃう……って、レイちゃん悪くないもん。会社に禁止されてる技を使って、ちずるちゃんを怪我させためぐみちゃんが悪いんじゃない!」
「そんな事、わかってるわよ!」
 つい張り上げてしまった大声に、また看護師さんが覗きに来た。
 愛想笑いで後ろ姿を見送ってから、そっぽを向いて唇を尖らせる。
「わかってるけど……あの二人に勝つなんて、絶対無理! ムリムリムリムリかたつむりよ。新人時代にあっさり抜かれて、今は雲の上のメインイベンター。勝てないなら、潔く散ることを考えるっきゃないでしょーが」
「でも……」
「デモもストも無いッ! あのツンケンした奴に『ごめんなさい』なんて、頭を下げられますか。ましてや、こっちは絶対に悪くない。だったら!」
「……特訓でもする?」
 こういう時は、美加の呑気さが恨めしい。
 ギロリと睨みつけてやると、本気で怯えた。
「三週間弱、特訓したくらいでどうにかなるなら、私も美加も、とっくに何かしらのベルトを巻いてるわよ」
「そりゃそーだ」
 事の発端であり、今は唯一の部外者となったちずるが肩を竦めた。
 他の団体はどうか知らないが、新女はこの手の遺恨試合やタイトルマッチで、試合前に勝ち負けを決めてくれるような団体ではない。今更の特訓なんて付け焼き刃が通用する相手じゃないことは、当の自分たちが良く解ってる。
 ましてや、相手はあの二人だ。
“めぐちぐ”と自分たちの商品価値の差を思えば、たとえ事前のシナリオを用意してくれたとしても、勝つシナリオを貰える気すらしないのだから。
 フンと鼻から息を吐いて、レイは眉間に皺を寄せた。
「勝てないってわかってるんだから……負けた後をどう見せるかが問題」
「……土下座でもする?」
「冗談じゃないわよ!」
 いくら強くても、相手は後輩。ましてや、シリーズ緒戦のメインイベントに、テレビ中継が入らぬはずがない。
 そんなみっともない姿を、全国のお茶の間に放映されるなんてまっぴらごめんだ。
「何か、格好良く負けを認める方法を考えなくちゃ……」
「何を今更。あの二人相手になら、負け慣れてるじゃん」
「だよねぇ」
 頷き合う美加とちずるを、睨んで黙らせた。
 まったく! 緊張感がないにも程がある。
「いつもの、どーでもいいような試合とは状況が違うでしょ。遺恨試合……それも、全国放送確実なシリーズ緒戦の後楽園プラザのメインイベントよ。試合に負けるのはしょうがないとしても、それ以上の無様は晒せないでしょうに」
「とは言っても……」
「……ねえ」
 顔を見合わせて頷き合う、二人の呑気さが恨めしい。
 なんだか一人で息巻いているのが馬鹿らしく思えてくるが、そんな場合じゃない。
「何と言うか……散り際の見事さとか……そんな演出を……そうだ!」
 ニンマリと浮かべたレイの笑みと、向けられた視線に美加の表情が引き攣った。
「カベジェラ・コントラ・カベジェラ! 敗者髪切りマッチにしよう! 結城以外はロングヘアだし、負けた悔しさを顔に滲ませながら丸坊主にされるの。これは絶対絵になるし、プラザのメインに相応し……」
「ダメェ!」
 ツインテールの髪を押さえて、美加が目一杯の抗議と声を張り上げた。
 ちなみに、もう諦めたのか看護師のお姉さんは確かめにも来やしない。
「スポンサーさんに怒られるもん。この間、夏のCM撮影やって、契約があるから夏が終わるまでは髪型を変えちゃいけないって、営業の人と約束したんだから」
「今時、パッと見で解らないような良いウィッグ、売ってるわよ」
「でも、丸坊主にされるところを全国放送されちゃったら、かつら被っても意味ないんじゃないか?」
 くっ……ちずるのくせに、鋭いことを言う。
 とはいえ、我が身に関わることだけに、簡単に引き下がるわけに行くものか。
「と、とにかくっ! 方向性は悪くないはずよ」
「う〜ん……髪を切らずに済むなら悪くないかなぁ」
 視線を上にさまよわせながら、美加が同意してくれる。我が意を得たりと頷きかけたレイだが、続いて零れた言葉に思わず天を見上げた。
「髪切りマッチじゃないなら……敗者引退マッチとかぁ」
「あんたは引退したいのかっ!」
 自分の言葉に気がついて、ブンブンと首を横に振る。
 当たり前だ。引退する気なら、武藤たちに追い抜かれた後。厳しい特訓をかせられた時期に、とっくに荷物をまとめている。
 なんだかんだ言ったって、三人ともプロレスが大好きなのだから。
 痛む顔を引き攣らせながら、それでも笑いを堪え切れずにちずるも混ぜっ返す。
「じゃあ、マスク剥ぎマッチの逆で、負けた方は覆面レスラーになるってどうよ」
「それじゃギャグでしょーに。だいたい、顔を隠した美加に何の取り柄がある!」
「レイちゃん、それ酷い!」
 プッと頬を膨らませる美加に、痛みと笑いでちづるがのたうち回った。
 まったく、そんな状況でギャグを飛ばすなっつーの。
 ようやく笑いの波が引いてから、ちづるがふと真顔の戻って呟いた。
「レイ、こりゃ最初から詰んでるよ」
「……詰んでるって、どういうこと?」
「理沙子さんが仕組んだことだろ。……レイの考えそうなことなんて、お見通しに決まってる」
 そう言われると、ぐうの音も出ない。
 新女の事務所で襟首捕まれ「覚悟を決めなさい」と詰め寄られた時の迫力は、現役時代そのまま。言い訳すらできずに、ただ頷くしかなかった。
「レイが変な小細工をできないように、足枷代わりに美加とのタッグにして。逃げも隠れもできない、シリーズ開幕戦。プラザのメインのリングを用意。もう退路なんて、とっくに断たれちまってるんじゃないのか?」
「……だよねぇ」
 ガックリと肩を落として、どうしようと美加がレイを見つめる。
 ちづるの指摘は正しいのだろう。
 でも……だからと言って……。
「だったら、どうすればいいのよぉ!」
 レイの悲鳴がちづるの病室に響いた。

 咽び泣くようなサックスの調べが、磨きぬかれたオーク材のカウンターに染みこむように流れる。
 マスターがかけるレコードなのだから、きっと有名なミュージシャンのものだろう。
 ジャズの雰囲気は好きでも、ジャズ・ジャイアントなどと称される巨匠たちの名前が、演奏と一致するわけでもなければ、そのテクニックを愛でるほどの知識もない。
「どっちかと言えば、サックスよりピアノの方が好きだなぁ」
 などと我侭を言う程度の好みだ。
 お酒を飲むのに賑やかな居酒屋ではなく、こんな半地下のバーを選ぶのも、きっと同じ理由。
 大人の雰囲気に憧れて、背伸びをしているだけ。
 それが解っているからこそ、マスターも背後に並んだ膨大な数のウィスキーから軽めのカナディアンウィスキーをチョイスして、ほんのり薄い水割りしか作ってくれないのだろう。
 まあ、しょうがない。
 武藤めぐみは、珍しくも素直に納得する。
 この場においては自分はまだ子供で、その入口を垣間見せて貰っているだけだという自覚があるのだから。
 何より、はっきりと未成年。
 追い出されないだけでも、ありがたいと思わなければ。
 黄昏が、ようやく宵に変わる時間。
 この手のバーを訪れる客が集うには、まだ早すぎる。そんな頃合いが、めぐみの時間。
 煩わしい寮生活から離れられる、僅かな息抜き。
 こんな時間でも持たなければ、やってられるわけがない。
 自由気侭に、自分のやりたいように。それが信条のめぐみが、よりにもよって、上下関係に厳しい、体育会系気質丸出しの新日本女子プロレスの寮暮らしをするなんて。
 よく続いているものだと、自分でも思う。
 もちろん、自分一人では三日と持たなかっただろうけど。
 チラッと横に視線を這わせる。
 そうでなくても子供っぽさを残したふっくらとした頬を、これでもかとばかりに膨らませた童顔が自分を睨んでいる。
 曲がりなりにも、めぐみが寮生活を送れているのは、偏にこの子のおかげ。
 感謝すべきとわかっていても、この世話焼きが時々鬱陶しく感じられるのは仕方のない事だろう。
 ましてや、めぐみの貴重な息抜きの時間を侵略するなど……。
「どうするつもりなのよ、めぐみぃ」
 プンプンと擬音を付けたくなるような表情を作って、結城千種が訴える。
 理沙子さんから正式な通達があってから、ずっと千種はこんな状態だ。めぐみの後について回って、どうするつもりなのかと問い詰める。
 さすがに酒場まではついてこないだろうと思ったが、甘かった。
 ペットボトルでオーダーした二リットルの烏龍茶をロックグラスで煽りながら、ずっとめぐみを睨み続けている。追い出してよと救いを求めたところで、マスターは苦笑いしながらグラスを磨いているだけだ。
「どうするったって……言われたとおりに試合するだけ」
「私は嫌よ。こんな形で……遺恨試合なんかで、富沢さんたちと戦いたくないわ」
「仕事なんだから、マッチメーカーの指示を拒むわけにもいかないわよ」
 何度も繰り返したセリフを、また、繰り返す。
 返される言葉も、もう何度目になるんだか。
「だって……勝っちゃうもん。一方的に悪いのはめぐみなのに、勝っちゃうわけにいかないでしょう」
「……だったら、わざと負けたら」
「そんな失礼なこと……できるわけ無いじゃない」
 そして、沈黙。
 サックスに代わって、しゃがれた男性ボーカルがスピーカーから流れる。
 この曲は知ってる。「What a wonderful world」って皮肉?
 まったく、もう……と、手を伸ばしたグラスを横からひったくられた。
「こら、千種! それお酒よ」
「わかってるわよ!」
 一気に煽って、手の甲で口元を拭いながら千種が怒鳴る。
 あぁ、こんな子じゃなかったはずなのに。千種がグレちゃった。
「あんた、お酒飲んだことないでしょ。未成年のくせに」
「めぐみだって、同い年じゃない! めぐみが飲んでるのなら、私が飲んだって大丈夫に決まってる」
 まあ、そうなんだけど。慣れってものもある。
 みるみる耳たぶまで真っ赤に染まって……最初はビールかワインが定石でしょ。
 仕方なく私が頼んだおかわりまで強奪して、再び一気に煽る。
 すぐに目をトロンとさせながら、千種はバンと両手でカウンターを叩いた。
「だいたい、なんでめぐみは禁止されている技を使ったのよ。永原さんを長く孤立させていたんだし、フランケンシュタイナーやムーンサルトでもピンを取れたでしょ」
「そりゃそーだけど……」
「禁止されている技を使ったばかりか、大怪我までさせちゃって。……めぐみはいったい、何を考えているのよ。富沢さんたちと揉めるなんて、信じられない。新人時代から、どれだけお世話になってる人たちよ。めぐみが続けられたのだって、直接指導の先輩が富沢さんたちだったからでしょ。越後さんみたいな厳しい人が直接指導していたら、絶対に反発したくせに。それに、入ったばかりの基礎訓練の厳しさを覚えてる? もうダメって時に強要されていたのを、富沢さんたちがわざとおちゃらけて注意を逸らして休ませてくれたのも、一度や二度じゃないし。それだけじゃないでしょ……」
 くどくどくどくどと、胸に溜め込んでいた言葉を一気に溢れさせる。
 千種、あんたは自分を抑えすぎだよ。
 少なくとも、あたしにくらいは感情をぶつけてくれてもいいのに。
「ちょっと、めぐみ。ちゃんと聞きなさい」
 あぁ、目が据わっちゃってる。意外に酒癖悪いのね。
 でも、私も言われっぱなしでいるほど可愛い性格をしちゃいない。もう一度頼んだおかわりを、こんどこそ飲み干して、負けじと酔っ払いになってから言い返す。
「言ってくれるけどね、千種。あんた……右のふくらはぎはどうなのよ」
「な、何のことかなぁ……」
 白々しく目が泳ぐ。
 ファンの目は誤魔化せても、このあたしの目を誤魔化せると思うな。
「金沢の大会で、あんた右のふくらはぎを痛めたわね。ひねったわけじゃないから、肉離れでしょ。ちゃんと湿布しなさい。私が気づいていないと思うの?」
「大丈夫よ、これくらい。大した怪我じゃないから」
「何言ってるの。あんたの生命線は、強靭なブリッジからの押し込み。その土台である足の負傷が、どうして大した怪我じゃないなんて言えるの」
「ドームまでに治るわ……きっと」
 怪我の程度は、態度に出る。
 語尾が弱気になるくらいには、ダメージが大きいわけだ。
 そんな事にも気づかない武藤めぐみだと思っているなら、大きな誤り。結城千種の一番のファンは、他ならぬこのあたしだ。
「こんなところで飲めないお酒飲んで、クダ巻いている暇があったら、病院行くなり、温泉に行くなりして安静に治療して。次のシリーズの開幕戦の心配なんて、タイトルマッチを終えた後でいいじゃない」
「……めぐみ、何年私と付き合ってるの」
 まっすぐにあたしを見つめて、千種が言う。
 ああ、そうだよ。あんたはそういう奴だ。心配事があったら、それを解決するまでは目の前のことに集中しきれない。
 そのおかげで、あたしは何度もらしくないことをしなきゃならなくて……。
「あんたがそんなだから……あたしのフィニッシュを無理にでも解禁しなきゃならなくなるんじゃない」
 言ってから、しまったと思う。
 唇を思い切り尖らせて、千種がまた両手でカウンターを叩いた。
「……私のせいなの? 私が怪我をしていると気づいたから、なし崩しに禁じ手を復活させようなんて考えたの?」
「それだけじゃないわよ、もちろん……」
「そんな事を考えていて、永原さんに怪我をさせちゃったの? 私が怪我をしているから、富沢さんと揉める結果になっちゃったの?」
「それは結果。あたしだって、怪我させようと思ってやったんじゃないわ」
「当たり前じゃない。……めぐみ、おかしいよ。何を焦ってるの」
 顔を真赤にして、ふらふらしながらも目はマジ。
 こういう時の千種を誤魔化せるとは思わないし、誤魔化したらこの子と向かい合うことなんてできない。こっちも、本音をぶつけるしかない。
「今回の相手は、スナイパー姉妹。こっちの僅かな綻びを見つけたら、そこから一気に逆転されかねないわ。千種に不安があるなら、その分あたしが……」
「それはリリーとコリーは難敵よ。お互いベストだったら、どっちに試合が転ぶかわからない。でも、勝負は勝負。負けたくはないけど、負けることだってあるわ」
 いくら千種の言葉でも、それは聞けない。
 めぐみはきっぱりと言い放つ。
「冗談でしょ! 千種と組んでベルトを取られるなんて」
「ベルトなんて、めぐみと二人ならいつでも取り戻せるでしょ」
 真っ直ぐな視線が絡み合った。
 まったく……お人好しな顔をして、言ってくれる。
 そんな千種の眼差しが、不意に翳った。
「でも……ベルトとなんてかかってなくても、勝ちたくない……うぅん、勝負したくない相手だっているんだよ」
「あんたは……余計なことを考えなくていいよ。これは、あたしがけじめを付けなきゃいけない問題だから。千種と金井さんは、普通に試合をしてくれればいい」
「……できるの?」
「誰に言ってるのよ、あんたは。あたしは伊達に天才なんて呼ばれちゃいない」
「でも……めぐみだよ?」
 もっともな心配をしつつも、千種がフニャッと笑う。
 コツンとやってやろうとした拳が届く前に、その笑顔はカウンターに突っ伏してしまった。
「まったく! 言いたいことだけ言って、勝手に潰れる」
 やり場のない拳の処遇に困りながら、めぐみは唇を歪めた。
 穏やかな笑みを浮かべながらマスターが、空になったグラスを淡い琥珀色に満たしてくれる。
「良いお友達をお持ちですね」
「良いお友達? この子が? まっさかぁ」
 顔をしかめて、めぐみが答える。
 ちょっと意外な顔をしたマスターは、続く言葉にくるりと瞳を回した。
「こいつは……あたしの最高の相棒」

「客席は九割方埋まってる。充分に合格点だろう」
 ようやく汗の引いた肩にジャージを羽織り、壁に凭れたまま越後しのぶが呟く。
 リングシューズの紐を締め直しながら、ぶっきらぼうにレイは言い捨てた。
「九割方って……新女の開幕戦のプラザが満員札止めにならないなんて、いつ以来ですよ。まったく、赤っ恥もいいとこ」
「初メインでそれなら、上出来だろう。営業の方では七割程度と覚悟していたそうだ」
「半分は、名古屋で時間切れ引き分けなんて、すっきりしない防衛戦をやった武藤たちのきちんとした勝ち方を見たいファンで、残りは遺恨戦目当ての野次馬に決まってるわ」
「そう自分たちを過小評価するな」
「過大評価なんてできないだけです。なんたってあたしたち、三バカですから」
 隣でウンウンと頷く美加。しのぶは天井を見上げた。
「お前らなぁ……たとえ、どんな事情にしても、新女の開幕戦……それも目の肥えたファンが多い後楽園プラザのメインを任されたんだ。胸を張れ」
 怒声を上げてみても、いつになく手応えがない。
 この連中のことだから、何か小細工をしようと思案していたようだが、結局は何の手立ても見つからなかったというところか。
(まったく……プラザのメインで小細工が通用するわけないだろうに)
 初めてこの試合の話を聞いた時、「無謀すぎます」と現場を取り仕切る佐久間理沙子に訴えたこともある。案の定、何を言っても涼しい顔で受け流されはしたが……。
 あの女帝も、何を考えてこんな試合を組んだのだろう。
 それは、この連中をいつか日の当たる場所に出してやりたい気持ちは、しのぶにだってある。でも、それは今ではないだろう。
 ましてや、どうあがいてもこの連中じゃ勝てっこない、世界最強のタッグチームを相手にするなどと……。
(……リストラ?)
 不穏な言葉が頭を過る。
 確かに、こいつらは新女の中では浮いている。でも、そんな例なんて藤島瞳を思い出すまでもなく、いつだって新女の歴史にいるものだ。誰もがドラゴン藤子や、パンサー理沙子、マイティ祐希子になれるわけではない。
 しのぶ自身だって、自分がそうなれる可能性が低いと認めざるをえない。
 それでも……。
 自分の居場所を探して、自分なりの輝きを放てるよう模索している。そんな様々な輝きを織り成してこそ、興業が成り立つはずではないのか。
 もっとも……お前らには努力が足りないとは、しのぶ自身も叱責に使う言葉だ。
「メインを任されたって言うより、押し付けられたって感じですけどね」
 ふてくされて吐き捨てるレイに、思わず、手にした竹刀を床に叩きつけた。
「甘ったれるなっ。今、このロッカールームにいる者で、たとえ押し付けられた形でも何でもいい。プラザでなくとも、新女のメインのリングに立ちたいと思っていない奴がいると思うか!」
 激しい怒声に、レイも美加も思わず顔を上げた。
 そして、自分たちを見つめる周囲の目にようやく気付き、顔を強張らせる。後輩ばかりではない、雲の上のはずの先輩たちも、普段のメインイベンターたちの顔もある。
 その誰もがすでにコスチュームを着替えていたり、汗を拭っていたりする。
 セミファイナルを戦っている六人を除いて、新日本女子プロレスのすべてのメンバーが試合を終えているのだ。
 綺羅星の如き先輩たちの盛り上げた会場で、メインを務める。
 今更ながら、二人の顔から血の気が引いていく。
 無理もない。
 しのぶがたった一度だけ、メインのリングに立った時もそうだった。
 地方の小会場。マイティ祐希子、ボンバー来島、藤島瞳と組んでの八人タッグの添え物……いや、負け役に近い立場だったが、それでも体が震え、足が竦んだ。
 それでも、自分たちを待ちかねたように煮え滾った会場の大声援は、今でも体に焼き付いている。
 もう一度、あそこに立ってみたいと。
「やだよ……恥かくだけだもん。このまま帰りたい……」
 気弱な美加の声が震える。
「逃げたって、やっぱ笑われんのよ。どうせなら……試合して笑われましょ」
 言葉こそ投げやりだが、ギュッと唇を噛み締めるとレイは、諦めたように立ち上がった。まだ呼び出しは受けていないが、先輩たちの視線が辛いのだろう。早足で、入場口に向かう。
「……死水はとってやる」
 月並みなセリフだが、そうとしか言ってやれない自分が情けなかった。
 入場口に向かう長い廊下。二人の表情を見て、屯している記者たちも声をかけるのを躊躇う。それでも、ストロボの閃きはメインイベンターの頬に浴びせられた。
「会場は、温めといてやったぜ」
 ちょうどセミファイナルが終わったのだろう。ボンバー来島が汗に濡れた大きな掌で、二人の頭を撫でながら擦れ違ってゆく。
「ふたりとも、緊張しない……リラックス、リラックス」
 微笑みかけて、ミミ吉原。気になるのか、振り返りながらだが、試合後のインタビューの時間に押されてゆく。そんな時に、平気で足を止めるのは、この人くらいのものだ。
「金井ちゃん、どうしたの。メインイベンターが、そんな泣きそうな顔をしてちゃだめだよ」
 マイティ祐希子に覗きこまれ、美加がどんぐり眼がパチクリさせた。
 その体に浴びた歓声が、汗の粒となって眩しく輝く。プロレスの申し子のような新女の絶対的なエース。
 この人ほど、メインのリングが相応しいレスラーはいない。
「美加は……私の巻き添えだから」
 俯いたまま、レイが呟く。
 祐希子はクスッと笑うと、強張ったレイの頬を摘んで無理やり笑顔を作らせた。
「武藤は不器用だからね。富沢とのシングルじゃ、試合になりはしないでしょ。私も理沙子さんと同意見。結城や金井ちゃんを含めたタッグで正解だと思うな」
「でも、無茶ですよ、こんな試合。……あたしらにメインの試合なんて」
「いーじゃん。メインの試合なんて気にせずに、富沢と金井ちゃんの試合をすれば」
「……えっ?」
 思わぬ言葉に、二人が顔を見合わせる。
 新女のエースの言葉はいつでも、お気楽なものだ。
「だって、あんたたちは他の試合ができるの? 理沙子さんも鬼じゃないから、ケーキ屋さんにカレーを売れとは言わないって。あんたたち自身の試合をメインで、あの二人相手にやってくればいいの。それだけのことでしょ?」
「でも、それで試合になるんですか?」
 戸惑うレイの胸元を拳の裏で叩いて、祐希子は顔を引き締めた。
「試合になるかならないかじゃなくて、試合にするんだよ。富沢もプロなんだから」
 お気楽に思えるその言葉の重さを、レイたちはすぐに思い知らされることになる。

「私が先に出るわ」
 有無を言わさず、先にリングに進み出る盟友の背をめぐみも止めるつもりはない。
 初めてメインのリングに立った時、誰もがこの雰囲気に呑まれてしまう。お気楽なはずの先輩の顔色は紙のようだし、口だけは回る先輩も掠れた声で「最初からクライマックスだぜぃ……」などと、呟くだけがせいぜい。
 あんな様子じゃ、まともな試合ができるとは思えない。
 めぐみが下がるなら、向こうも出てこない。遺恨などない二人のリングなら、とりあえず、試合の準備が整うまで、なんとかつないでくれるだろう。
 興業の全ては、この試合のためにある。
 綺羅星のような新女のスターたちが、ひと興業のすべてを費やして、この試合のために会場の緊張感と興奮を爆発寸前にまで仕上げてくれるのだ。
 慣れればやみつきになるが、不慣れな内は恐怖でしかない。
「サポートもなしで、いきなりメインのリングに上げるんだよ。理沙子さんは、あの二人にそれだけのものがあると見てるってことじゃないかな?」
 めぐみの不平を耳に挟んだマイティ祐希子の言葉だが、いつもと違って素直には信じられない。
 あのおちゃらけた、頼りない先輩たちに何があるというのだろう。
 のんびりとコーナーに凭れ、リングを見つめながらめぐみは思う。
 千種ではないが、こんなにやりづらい試合も珍しい。
 実力が拮抗している相手なら、ただ我武者羅に向かっていけばいい。たとえ力が優っていても、相手がベテランであれば、注意深く当たって何かを吸収できればと探りを入れればいい。力の劣る後輩相手なら、実力の違いを見せつけてやるのが、いつもの自分だ。
 でも、今日の相手は……。
「まったく……どうしたもんだか」
 ともにスープレックスを得意とする、いかにも女子選手らしい千種と金井さんは手が合う相手だ。無邪気で陽性のキャラクターも同じ。拭えない実力差も、金井さんの受けの上手さもあって、決して一方的にはならない。
 もちろん、千種の加減があってこそではあるが。
 向こうの顔色も戻り、踏み込みもしっかりしてきた頃、客先がざわつき始めた。
 流れるような綺麗な技の攻防もそれなりに見応えがあるが、今日の観客が望むものはそれではない。
「美加っ!」
 機を失せず、富沢さんの声が飛ぶ。どうやら、こちらの方も平常心に戻ったらしい。
 新たな選手が交代して入った際、優勢となるのはタッグマッチの常。羨ましいくらいに長い脚を撓らせての蹴りの牽制を掻い潜り、組み付いた千種をサブミッションに捕らえると、さんざん悲鳴を挙げさせる。
 そして……。
「そんな所で気取ってないで、出てきなさいよっ……武藤!」
 大胆にも、千種をこちらのコーナーに投げ飛ばして富沢さんが吠える。仮免とはいえ、メインイベントに出るなら、これくらいはやってくれないとね。
 ゴングが鳴る前から、準備は万端。
 待ちかねたような大歓声を引き連れて、リングに躍り出た。
 当然のようにリングの中央に陣取り、華奢な先輩を睨みつける。ここは自分の周囲をステップしながら回る相手を、悠然と待ち構える王者のポジション。
(何を仕掛けてくるのかは知らないけど、こちらから動いてやる義理はないわよね)
 お人好しな千種でも、きっと同意してくれるはず。
 様子を窺った所で、隙なんて見せはしない。度々飛び込んでくる気配を見せるが、そこまで無謀ではないらしい。女子の試合にしては珍しいくらいに長く、膠着状態が続く。
「……めんどくさいっ!」
 また後で千種に「本当にめぐみは堪え性がないんだから」とか言われそうだけど、これがあたしの性分。待つなんて似合わないっ。
 ケレン味などまるで無視した、速射砲のようなドロップキック。
 滅多にやらないタイトル戦スペシャルで狙撃してあげるんだから、感謝しなさい。
 大きく相手コーナーまで弾け飛ぶ姿を、いつものオーバーアクションだと思ったのだろう。おぉと会場から大爆笑が起きる。だが、それはすぐざわめきに変わった。
 受け身を取りきれなかったに違いない。マットに蹲ったまま、動けずにいる。
 怪我をさせてないかと気にはなるけど、ここはリングの上。大げさに肩を竦めて見せ、呆れ顔を客席にアピールするしかない。
 まったく、たった一発で何やってんだか。
 即座に、自らパートナーにタッチして金井さんが飛び込んでくる。まぁ、金井さんなら受けが上手いから、ドロップキック一発で行動不能になることはないでしょ。もちろん、こっちも決めてやるつもりで出した技だけど。
 悪く思わないで欲しい。この大歓声に煽られたリングでは、いつもなら、気持ちの乗ってない半端な技じゃ、ダメージなんて与えられやしないのだ。
 どっちにしろ、富沢さんの復帰待ち。
 金井さんと手を合わせるのは新人時代以来だけれど、相変わらずやりづらい。
 受けてナンボの人だから、あたしが攻めるのを返し技で反撃して……という展開にしかならない。しかも妙に受けが上手いから、柳の枝を殴っているようなもの。効いてんだか、効いてないんだか解りゃしない。
 しかも大げさだから、悲鳴だけは派手にあげるし。
 自然と、一方的にあたしが攻める展開になってゆく。早いところ富沢さんが戻ってくれないと。今日のお客さんが見たいのは、私がか弱い先輩を叩きのめす試合じゃない。
 客席から、ブーイングが上がり始める。
 千種と組んだプラザのメインでブーイングなんて、恥ずかしいったらありゃしない。
 客に満足以上、最大限の興奮を持ち帰らせてこそ、メインイベンターなのに。
 仕方がないと、エルボーを落として金井さんをセカンドロープとトップロープの間に凭れさせる。素早く距離をおいてダッシュ。そのまま、両ロープに腕をかけるようにして、その間でターンしながら、金井さんの顔面を蹴り飛ばす。
 初公開の619。どーよ。
 初めて見せる大技に歓声が沸くかと思えば、逆に大ブーイングが降り注ぐ。
(な、なんで……)
 戸惑い、コーナーの千種を振り仰ぐ。無邪気だが冷静な相棒もオロオロしているが、その原因をしっかりと掴んでくれていた。
「めぐみぃ! 忘れないで、相手は金井さんだよ!」
 ブーイングを浴びているのは、試合内容がお気に召さないからではない。あたしがヒール視されているからだ。
 スーパー・ベビー・フェイス。
 子供っぽく、華奢でひ弱な印象を受けるキューティー金井というレスラーは、特に判官贔屓が強い日本の客層では、常に応援され、支持される側になってしまう。
 何しろ、自分を可愛く見せることに全てを費やしていたようなスーパー・アイドル藤島瞳さんまで、ブーイング対象にしてしまったくらいだから、手の打ちようがない。
 それ故、新人時代以来、組むことはあっても敵にすることはなかった人だ。
 相手団体のベルトを持ってアメリカに遠征すれば、ヒール的に扱われることが多い。
 でも、ヒールのブーイングは自らコントロールして煽っているのであって、歓声と同じ。自分の支配の外から浴びせられたことなんて、初めてのことだ。
(コントロールを外れたなら、手綱を握り直せばいいだけ)
 見栄えのする飛び技を控えて、威力が目に見える打撃技を増やしてゆく。
 こうなると、もう千種をリングに上げるわけにはいかない。あの子は良い子で優しい子。ヒールっぽいファイトに切り替えて、観客のブーイングに呼吸を合わせる。
 歓声を浴びるも、ブーイングを浴びるも基本は一緒。ただ、いつもの逆をやればいいだけのことなのだから。
 サイドバスターで俯せに潰し、細い背に跨る。両足首を抱えて、思い切り背骨を反らせてやる。緻密さが要求されるサブミッションは苦手だけれど、これならあたしだって得意だ。最も単純かつ、苦痛の見えるサブミッション、逆エビ固め。
 金井さんの盛大な悲鳴と、会場の大ブーイングがシンクロする。……それにしても、この人の背骨はどこまで反るんだ。全く手応えがないまま、もうとんでもない角度なんですけど。
 苦悶する金井さんの顔が映せるよう、テレビカメラのサイドに向けて仕掛けてある。いたぶってる表情も見せておこうと振り向いた時、背中に乾いた音が弾けた。
 技を解いて前転。やっと、復活してきたんだ。
 向き直った途端、脳天に一撃が来た。
 まったく、竹刀なんてどこから持ってきたのよ。……あ、寮長のか。
 腰が入っていないから威力は無いけど、めちゃくちゃに振り回す竹刀は危なくてしょうがない。それまでの展開もあって、大人しくやられるままになっておこう。
 ロープ際まで追い詰められた所で、右肩の上で竹刀が砕けた。よし、反撃と思う間もなく、竹刀の柄で喉を押されてリング外に落とされる。更に滑り降りてきた富沢さんは、リボンを掴んで、エプロンに人の頭を何度も叩きつけた。
「いい加減に……っ!」
 頭を上げた勢いをそのまま利用されて……やばっ。今度はコーナーポストの鉄柱に。
 さすがに目の前に星が飛ぶ。更に二度叩きつけるのは、やり過ぎだろう。
 歓声とブーイングが渦巻く会場が不意に赤く染まった。流血?
 流れ込んだ血で、目を開けられない。
 観客席とを分ける鉄柵に額を擦られながら、会場をぐるりと引き回される。富沢さんって、こういうラフファイトを嫌っていたはずなのに。そんなに、あたしが憎いか?
 理沙子さんの声が聞こえるから、放送席前だろう。
 攻撃の手が止まり、ようやく額と目を拭う。ちょっと、何を持ってるのよ。
 客席の悲鳴が上がる中、実況マイクのスタンドがあたしの額に振り下ろされた。
「富沢ーっやりすぎだろー!」
 会場のブーイングが、今度は富沢さんに向けられる。当然でしょ。さすがにこれ以上の追撃はなしで、富沢さんはリングに戻って涼しい顔だ。
「めぐみっ……大丈夫?」
 千種が額にタオルを押し当てて、少しでも血を止めようとしてくれる。でも、そんな手も、様子を確かめようとするドクターも振り切って、あたしはリングに駆け上がった。
 流血は、もう止まっている。
 人間、怒りで出血を止められるものだ。いや、本当に。嘘だと思ったら、ボクサーの人に聞いてみるといい。
 ラフファイトをしかけるなんて……先輩たちは先輩たちらしく、正々堂々、あたしたちをおちょくって欲しかったのに。
 その先は、もう一方的だ。
 もとより、力量差は歴然としている。
 リングの中央に仰向けにした富沢さんに、ムーンサルトプレス。タイプが似ている私のために、敢えてセミで祐希子さんが使わずにいてくれた決め技でフィニッシュ。
 ワン・ツー……地団駄?
 富沢さんが肩を上げている。何やってるのよ、ここはスリーの流れでしょ?
 お決まりとして、レフリーに「カウントが入ったでしょ」と抗議。ファイトの声を聞くか聞かないかのタイミングで、あたしは富沢さんの肩に飛び乗り、そのまま体を反らせながら、反動で後頭部をマットに叩きつけてやった。
 電光石火のフランケンシュタイナー。
 私はここ数年愛用している二つ目のフィニッシュホールド。
 そのままエビに固めて、ワン・ツー……また地団駄っ!
 何を考えているのよ! フィニッシュホールドで締めてこそ、プロレスでしょうが!
 二つのフィニッシュを返され、あたしはムッとして富沢さんを睨む。そこまで下衆なことをしますか、先輩は。そんなボロボロの状態で。
 でも、富沢さんは妙に穏やかな目でニッと笑った。
(その技じゃ、この試合は終われないでしょうが)
 同じレスラー同士、その意志は伝わってくる。
 あたしには、もうひとつフィニッシュホールドがある。
 でも、それは会社から禁じられている技だし、永原さんを怪我させてしまった技。そして、この試合の元となる遺恨を産んでしまった技。
 確かに、この試合を終わらせるには、それ以上相応しい技は、ない。
(怪我したって、責任持てないからね!)
 富沢さんをロープに振る。そして、自分自身も体をロープに預けて、飛んだ。
 会場に集ったファンからも、仲間内のレスラーからもどよめきが起こる。あたしが何を仕掛けたのかわかったから。
 禁じ手、縦回転のフライングニールキック。
 あたしのこの技は、他の連中とは違う。脛を叩きつけるのではなく、まさしく蹴る。踝がピッケルのようになる危険性は承知の上。だから、わずかにずらして袈裟斬りで首の付根を蹴る。微妙な技だから、変にジタバタされたりするのは、逆に迷惑。
(やばっ……)
 覚悟を決めて任せてくれたのだろうが、ダメージのある富沢さんがふらついた。
「間に合えっ!」
 あたしだって、伊達に天才なんて呼ばれてない。
 蹴り足の軌道修正をかけて……。
 スリーカウント。降り注ぐ大歓声。嬉しそうな千種の笑顔。
 その先は、何も変わることのない、いつもの光景だ。
「終わった終わった……帰ろ、千種」
 小柄な肩を押して、あたし。でも、千種は妙に嬉しそうな顔をしながら言った。
「まだ、終わらないと思うけどな……富沢さんだし」
 それが嫌なの。マイクでダラダラやり取りをするのは、あたしは苦手だ。千種に任せるからと言おうとしたが、その前にご指名を受けてしまった。
「武藤! あんたら、そんなものなの? だらしないわね」
 待ってましたとばかりに新人が差し出すマイクを受け取ると、ニコニコ顔であたしに手渡す。千種……あんた、試合はやりたくないとゴネていたくせに、マイク合戦の方は楽しみだったのね。
「……きっちり負けといて、なに言ってんですか」
「負けんのは当たり前じゃん。あんたらはIWWF世界ヘビー級ダッグチャンピオンで、あたしら、三バカよ? そんな雑魚仕留めるのに、ムーンサルト、フランケンシュタイナー返されて、会社から禁じられた技まで繰り出して、ようやくって情けないにも程が有るわよ……そんなんだから、地元名古屋で引き分け防衛なんて醜態を晒すの」
 自分で誘っておいて、それを言うか!
 どっちもギリギリの状況で返して、それ以上何も出来なかったくせに。今だって、寮長と金井さんに肩を借りて、やっと立っていながら。
「マグレで返したくらいで……」
「マグレでも……あたしらに返されてるようじゃ、言い訳できないでしょうが。スナイパー姉妹やクリス・モーガンは、あたしらほど可愛くないんだからさ」
「……でも、レイちゃん。コリー・スナイパーは可愛いよ?」
「混ぜっ返すな、美加! そーゆー意味じゃないっ。……っと、なんだっけ。そうそう。あんたらはさ、時代の新女を背負って立たなきゃいけない存在なんだから、あたしらごとき……もっとあっさりと片付けなさいってのよ」
 言われたくはないが、耳が痛い。
 別にわざと倒さなかったのではなく、本気で行って返されたのは、紛れも無い事実。
 答え倦ねていると、人の悪い先輩はニヤッと笑って勝ち誇った。
「グゥの音もないでしょ。……もっと精進なさいな。あんたらが、フィニッシュ・ホールドなしであたしらをフォールできる自信ができたなら、いつだって挑戦を受けてあげるわ!」
 大爆笑と拍手。
 何で負けた方が、偉そうに挑戦を受けてやるとか言ってんのよ。あたしが何か言い返してやろうと考えていたら、さっと千種がマイクを取って答えてしまった。
「わかりました。その時は、逃げないでくださいね」
「ぉおし。……でも、結城もバックドロップ無しね」
 エェッ……とか言いながら、千種はニコニコ顔だ。もう何でもいいよ。千種が嬉しそうなら、もうそれでいいから。あたしは、面倒くさいのは苦手だ。先に帰ってしまおうかと思ったら、すかさず追撃が来た。
「でも武藤……あんたのフライング・ニールキックも大したことないね」
 それは聞き捨てならない。
 何でよ! と振り返ると、また富沢さんはあの穏やかな目をしていた。
 そして、続く言葉に、あたしは。
「禁じ手なんて言うから……どんだけ危険な技かと思えば、何? あたしはこの通り、ピンピンしてるよ? そりゃあ、ちづるは病院送りになったけどさ……アイツのことだから、受け止めてジャーマンでもやろうとか、アホな事考えてたんじゃない? ねえ、理沙子さん。こんな技、勿体ぶって禁じ手にしておく程のこともないでしょ?」

 梅雨が近いことを感じさせる、生温い夜。重く垂れ込める雲に遮られて、星なんて見えるはずもない。
 でも、連中の居場所はここだろうと、迷うことなくしのぶは新女寮の屋上へやってきた。それも、物干し台も兼ねた広い場所ではない。一段高い、給水塔のタンクの翳。
「すいません、寮長。竹刀の弁償は、次の給料日まで待って下さい」
 足音で判断したのだろう。
 先手を打って、レイの声がした。
「弁償する気があるとは思わなかったよ。それなら、お前ら専用に、男性用の重い奴が一本欲しいところだ」
「……レイちゃん、重いとやっぱり痛いの?」
「……話の流れからするとね」
「……弁償やめよう、レイちゃん」
 漏れ聞こえる、素直過ぎる会話に、思わず吹き出してしまう。
 しのぶは彼女らの顔が見えぬよう、タンクに背を預けて夜空を見上げた。
「こんなところで、何をやってるんだよ。みんな、お前らを探しているぞ」
「……レイちゃん。今日はまだ怒られるようなこと、してないよね?」
「お前らだって、たまには褒めるために探されることもあるんだ」
 乾いた笑い声が二つ。
 一部の人間以外はダメ元であった今日のプラザのメインは、予想外とも言える高評価を与えられたことを、この連中も知らないわけではないだろう。
 力不足はあれど、きちんと観客をコントロールして、この上ない決着にまで持っていった。それどころか、実績は遥かに上である後輩、武藤めぐみに禁じ手とされていたフィニッシュ・ホールドを、取り戻させるおまけまで付けて。
「誉められるようなことなんて、何も無いじゃないですか。ドロップキック一発で潰されて、あとはみっともないラフファイト……喋りで、格好だけ整えてもね」
 ヘラヘラ笑いながら、レイ。
 こんな言い方をする時ほど、本音に近いことをしのぶはよく知っている。
「一発で潰された方はともかく、何で私の竹刀を奪ってまで、ラフに走ったんだ? 金井を相手にしちゃ、ブーイングを浴びせられて『あたしはヒールじゃないってのに』とぼやいていたのが、いつものお前だろう」
「ま、そうなんですけどね」
 ザリっと砂を踏み躙る音。長い溜息。
 急かすことなく、しのぶはのんびりと続く言葉を待った。
「異常でしょ。……新女のリングで、武藤と結城がブーイングを浴びるなんて。あの二人は、祐希子さんに続いて新女の金看板を担がなきゃいけない奴らなのに。そう思ったらつい、体が勝手に動いてたんです」
「らしくないラフで、自分の評判を落としても?」
「そんな事考える暇もなかったし……それに、あたしら、落ちるような評判はありませんって。だってほら……三バカでしょ」
「それでも、新女のことを第一に考えちまうのが、お前らだろ。先輩として、あまり可愛くない後輩に最後の贈り物まで用意して」
「……もどかしかったじゃないですか。名古屋のあいつらの試合。結城が調子を落としていた分、決めにいかなきゃいけない武藤も決めあぐねていて。……アレが使えれば、すっきりと、あいつららしい勝ち方ができたはずなのに」
 いかにも悔し気な言い方に、ついクスッと笑ってしまう。
 それに気づいて、レイは慌てていつものおちゃらけた様子を取り繕った。
「でも、寮長。あたしらが最初から用意していたなんて言うのは、買いかぶりですよ。アレは、その場の成り行き。思いつきで言ったことが、たまたまうまくハマっただけなんですから」
「案外……富沢レイは、良い寮長になるのかもしれないな」
「冗談じゃないです! よりによって、それですかぁ?」
 ふと口をついた言葉に、憤慨しながらレイが飛び出してくる。その後から、興味津々と美加も。
 しのぶはようやく、持っていたサイダーの缶を二人に投げ渡せた。
「お前らの初めてのメインイベント、成功に乾杯だ」
 照れたような、怒ったような、不本意な……複雑な表情で、二人がタブを開けて缶の縁をしのぶの缶に合わせた。
 生温い夜に、キンと冷えた炭酸が心地良い。
「……寮長のおかげっす」
「……だよね。私達を本気で怒ってくれるの、寮長だけだもん」
「珍しく素直じゃないか」
「……サイダー一本分くらいは、素直にならないと」
 まったく、ああ言えばこう言う。
 へそ曲がりだし、決してまっすぐに歩こうとしない。
「お前らは昔から、そうだからな。……部屋を抜けだして、こんな所にいたってことは、お前らなりに反省すべきことも多いというわけだ」
「まぁね……久しぶりにはっきりと、力の差を見せつけられちゃったし」
 レイが顔を顰める。
 美加も、もどかしげに地団駄を踏みながら訴えた。
「せっかく、めぐみちゃんが攻めさせてくれてたのに、攻めが全然繋がらないんだもん。次に何をしようって、考えている内に手が止まっちゃうし……」
「あたしもね……。何もラフに走らずとも、ヒールポジションを奪い取る方法が、当然あったはずなのにと思うと、悔しくてね。……さすがに、あいつら相手だと、あたしららしい試合なんて、結局出来なかったもん」
 盛大な、ため息。
 しのぶは、半ば呆れながら笑った。
「何だ、一端のプロレスラーみたいなことを言うな?」
「プロレスラーですよ、あたし」
 笑いながらも詰め寄るレイと、うんうんと頷いてる美加。
 もう俯いたりなど、していない。
「どうやら、自分が目指すべき上が見えてきたようだな。あとは少し……努力しろ」
 むにゅっと何とも言えない表情になった二人は、顔を見合わせうんざりと天を仰ぐ。
 それから、レイが急に爽やかな笑顔を見せて言い切る。
 それだとばかりに、美加もう大きく頷いた。
「冗談でしょ、寮長。あたしらはあたしららしく、斜め上を目指しますって」
 竹刀が無い分、拳骨を振り回すと、連中はわざとらしい悲鳴を上げて逃げ回った。
 それを追い掛け回してやるのも、困ったことにしのぶの役回りだろう。
 だが、連中は自分で言い切った。「斜め上を目指します」と。
 今はそのセリフだけで充分だ。
 どこを目指すにしろ、必ず努力がつきものなのだから。


朝日のようにさわやかに 完
posted by Luf at 18:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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